あさい のぶよし
講師
SMAP やサカナクションなどのミュージックビデオやコンサートの振付、「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)、「バブルへ GO!! タイムマシンはドラム式」(馬場康夫監督)など映画、CMの振付でも活躍
高校時代にダンスを始めて世界チャンピオンになり、その後、山海塾へ。多彩なことが起きてます。ご自分にとってエポックメイキングな出来事はなんだったのでしょうか?
僕は、10代の頃にアメリカでヒップホップの世界チャンピオンになったんです。チャンピオンになった夜、クラブに打ち上げで行ったとき、アメリカ人のおじいさんがスティック片手にスコッチを飲みながら、グルーヴに合わせて乗っているのを見て、すごくかっこよくて、自分が目指したものとかっこいいと思うものの差を感じました。なにを目指してきたのだろうと世界一になった日に気付いてしまって、その記憶を抱えたまま、CMや映画など商業の世界でやっていました。名古屋から東京へ出た頃、辻本知彦さん(コンテンポラリーからジャズ、ヒップホップまで、あらゆるジャンルのワールドクラスのダンサー。シルク・ドゥ・ソレイユ、Michael Jackson The Immortal World Tourへの参加、MVなどのダンス振付師としても知られており、Foorin『パプリカ』の振付も手がける)のところで一緒にやっていましたが、彼に「ノブは、山海塾がすごく合っていると思う」と言われたことがあり、実際に見てすごく衝撃を受けました。山海塾を見たときに、世界一になった夜の記憶が蘇りました。山海塾の天児さん(天児牛大〈あまがつうしお〉1975年 舞踏集団 大駱駝艦から独立して山海塾を設立)の佇まいと、アメリカで会ったおじいさんの姿がリンクして、ただ技術とか有名になるとかではなく、肉体を使った存在と表現というものを確認しておきたいと考えるようになりました。
それから5年間、山海塾で活動。CMの仕事などと並行してですか?
山海塾だけでは生活できなくて、香瑠鼓さん(「タケモトピアノ」「グリコ ポッキー」「慎吾ママのおはロック」などを手がける振付師)にスカウトされて、CMや映画の仕事をしました。この頃は年間100本とか振付をして、ほぼ寝ないわけです。もう毎日、思い付きで作った振付を覚えてもらって現場へ行き、戻って夜にはまた振付を作る。お金はいいので何年もやっていましたが、僕は消費されていくことに耐えられなくなっていきました。その一方で、山海塾では世界ツアーをまわり、世界中の文化をシャワーのように浴び続け刺激を受けるわけです。消費されるものを作っていては自分の経歴として残るようなものは作れないと感じ、2009年に海外に完全に拠点を移すことを決めました。
そこから自分の作品を作っていくわけですね。自分でやらなければいけないというモチベーションは最初から?
高校生ぐらいからありますね。ストリートダンスの頃は、自分でイベントを企画するオーガナイザーもやっていました。やりたいことをやるための場所は、他者に用意してもらうのではなく自分で作らなければいけない、とその頃から思っていて、実際、パリへ活動拠点を移したときもそうでした。制作をプロデューサーに一任していたがために、彼と意見が合わなくなったとき、お客さんがゼロということもありました。僕らダンサーは、お客さんがいないところで公演をしたんですよ。そんなこともあり、やはり他人に頼っていても自分が行きたい場所には行けないと思った部分もありましたし、人とのコミュニケーションの取り方ってなにが正解なんだろうと悩んだりもしました。でも、誰かのせいにはしたくない。2016年に日本へ帰ってきて、生き残っていくために自分のカンパニーをもう1回作り直そうと「月灯りの移動劇場」を始めました。
学生や若い演劇人に伝えたいことは?
演者を育てるなら専門領域ですが、舞台プロデュースというのは、いわば裏方を育てるわけです。なにを学生に教えていけるのかと最初の1年は悩みました。舞台の世界に長くいますが、考えてみると大きな問題があって、それぞれ専門が縦割り化しているのです。よい作品を作るためには皆が意見を出し合って共同していくことが舞台の本来の形なのに、縦割り化していてそれができなくなっているのが現状です。じつは、演出家が一番それをフラットに見ています。同じように、それぞれの専門領域を横断して、他の領域のことも理解できるようになってほしいと思います。